肥溜めも

面白くないです

0315

 全文自分語り

 

 

 療養をはじめて一年になる。

 休職も含めるともっとだけれど、その間会社と紙を通じてバチバチやりあっていたのでノーカンとする。

 我ながら無為な一年を過ごしたと後悔と罪悪感と人生に対する取り返しのつかなさへの絶望感が苦しい。私が一年だらだらしている間に友人たちは、スキルアップ、結婚、出産、将来設計の見直しをしていて私だけが十代の精神を手放せず蹲って立ち止まっていたわけだ。とはいえ、一年もあれば傷も癒えたのかまともに思考できるようになり一年前は職務経歴書の一行目で泣きそうになっていたのが最近はなんとなく過去に書いたものを参考にしようと読み返せるようになったのだから成長したとポジティブに捉えたい。

 お金はなかったし、理由のわからない不安や悲しさが苦しくまとわりついた一年だけれど何も得るものがなかった一年でもない。世間を騒がせる大きな出来事が私にとって良くも悪くも影響した。件の病で、知人が傷ついたことも、老齢故弱っている親戚に対する不安は小さくなかった。とはいえ、自己中心的な考えを漏らしてしまうと、会いたくない親戚、他人と無理に会う必要がなかったのは精神的に大きく回復に向かわせてくれたと考えている。直接的に不謹慎な発言をしてしまえば、他人と自分を比較して勝手に傷つく質としては時勢に助けられたのだ。

 私は私に甘い。

 先程の考えも、本来気に病みやすい人間ならば周りの人間を気にして情報に苦しみ病を悪化させるのではないか。不謹慎な考えを抱える私を、私は許してしまっている。その上インターネット依存症を悪化させて体調自体は回復に向かわせている。社会性を犠牲に回復しているのは如何なものだろうか。この思考に陥るとき「では他人との関わりをシャットダウンして一体なんのメリットがある?」という言い訳が湧くのだが、こうして文章に書いて冷静になると問題点のすり替えにほかならない。依存していることこそが問題であり、他人との関わりを断つ、断たないという話ではないのだ。どうしてこう0か100か極端な話になるのか。

 現代社会に生きる独身の20代社会人は、皆似たような境遇と考えている。そのうえで、では誰が自分自身を甘やかしてくれるのだろう。お酒の場?パパ活ママ活?マッチングアプリ?MMO?一期一会の出会いは自分の半生、悩みを吐露しやすい。後腐れないから。しかしネットリテラシーが叫ばれた時期にインターネットに触れていた世代はそう簡単に自分を曝け出せないのではないだろうか。少なくとも私と、私の周りはそうだ。なかなか他人に甘えられないなら、自分を甘やせるのは自分しかいないじゃないか。甘ったれた思考の正当化といえばそれまでだが、そうやって許しがないと、社会は厳しく辛い。私が私を甘やかさないと立ち直れなかった。

 昨日、久々に前職の夢をみた。厳密に言えば仕事しているところではなく、友人たちと旅行先で飲んでいたら前職の人間たちと出くわすという内容なのだが、詳細は割愛する。過去の私ならば前職関連の夢をみただけで一日気持ちが落ち込み頭が回らなくなっただろうが、その日は起きたときから「そんなもんか」とどうでも良くなっていた。その温度差に自分でもびっくりしたが、色々考えた結果あれだけ引きずっていた出来事が過去になったのかと納得した。

 自分を甘やかす自分の存在は悪いものではなかったと許容できるようになってきたから言語化したく支離滅裂ブログを綴ってみた。こうしてみると己の甘ったれ具合に腹が立つが、これを責めて生きると取り返しのつかないことになりそうなので、なんとか甘やかしつつ自分の尻を叩いて生きていけるようになりたい。

 

褒められた人生を送っていないので、過去の甘やかし行為を責められるとこちらとしてもぐうの音が出ないのだが、今回はそれらに目を瞑って欲しい。